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2009年8月 アーカイブ

2009年8月27日

八甲田雪中行軍遭難事件

事件の背景には、日本陸軍が冬季訓練を緊急の課題としていたことが挙げられる。日本陸軍は1894年(明治27年)の日清戦争で冬季寒冷地での戦いに苦戦し、そしてさらなる厳寒地での戦いとなる対ロシア戦を想定し、準備していた。こうした想定は、事件から2年後の1904年(明治37年)に日露戦争として現実のものとなった。

この演習の目的は、ロシア海軍の艦隊が津軽海峡(北海道と青森との間)に入り、青森の海岸沿いの列車が動かなくなった際に、日本海側と太平洋側から、それぞれ移動するための演習であった。そのルートは「弘前~十和田湖畔~三本木~田代~青森」と「青森~田代~三本木~八戸」の2ルートが考えられ、弘前ルートは弘前第31連隊が、八戸ルートは青森5連隊がそれぞれ受持つ形となった。このような形になったのは全くの偶然であり、弘前第31連隊は「雪中行軍に関する服装、行軍方法等」の全般に亘る研究が目的だったのに対し、青森第5連隊は「雪中における軍の展開、物資の輸送の可否」が目的だったとされている。


遭難部隊
遭難したのは、青森を衛戍地とする歩兵第5連隊第2大隊である。部隊の指揮を執っていたのは、中隊長で陸軍歩兵大尉の神成文吉(かんなりぶんきち)である。但し、大隊長で陸軍歩兵少佐の山口鋠が指揮に関与したとされている。神成文吉大尉は、秋田県の出身で、陸軍教導団を経て陸軍歩兵二等軍曹に任官し、順次昇進して陸軍歩兵大尉となった人物である。

神成大尉の命を受けて危急を知らせる途上で仮死状態となっていた後藤房之助伍長が1月27日に捜索隊に発見されたことから、遭難の詳細が判明した。5月28日に全遺体が収容された。

最終的に生存したのは、倉石一大尉(山形)、伊藤格明中尉(山形)、長谷川貞三特務曹長(秋田)、後藤房之助伍長(宮城)、小原忠三郎伍長(岩手)、及川平助伍長(岩手)、村松文哉伍長(宮城)、阿部卯吉一等卒(岩手)、後藤惣助一等卒(岩手)、山本徳次郎一等卒(青森)、阿部寿松一等卒(岩手)、の11人のみであった。

生存した将兵も、倉石大尉、伊藤中尉、長谷川特務曹長以外の、そのほとんどが凍傷により足や手の切断を余儀なくされた。軽症な方では、及川はアキレス腱と指3本、山本は左足を切断した。その他は四肢切断であった。また、一番元気だった倉石大尉は日露戦争の黒溝台会戦で1905年1月27日に戦死した。伊藤中尉、長谷川特務曹長も重傷を負った。

1907年(明治40年)、銅像が立てられたが、後藤房之助本人は当時の連隊長に「よく見ろ」と言われたが、照れくさくなかなか見ることができなかったという。彼は遭難の話はあまり話したがらず、また、後藤伍長は同じく生き残りの村松伍長と仲が良かった。後述するが岩手と宮城の兵士たちにとっては凄まじい惨劇となった。

後藤伍長は銅像のほか、現在青森県道40号青森田代十和田線の路上に「後藤伍長発見の地」という板が立っている。ただし、発見の地は銅像よりも数キロ青森よりの場所である。銅像の場所は馬立場付近で、第二露営地と第三露営地の間である。

銅像に向かうスキーのコースは銅像コースと言われる。同コースでは、2007年(平成19年)2月14日に、死者2人・重軽傷者8人を出す雪崩事故が発生した。

『ウィキペディア(Wikipedia)』引用

八甲田雪中行軍遭難事件の背景に迫ってみました。

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